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5月8日、63歳の夫が脳梗塞で緊急入院、一度は命が危ないと言われ、左半分は麻痺となった。9月の退院と言われつつ、7月の末には、歩けるようになり、4階にある我が家へ自分の足で歩き退院し帰宅した夫。
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ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。
イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
           ヨハネの福音書4章7節


主イエスは、
スカルというサマリヤの町に来られました。
そこにはヤコブの井戸があリました。
イエスは旅の疲れで、
井戸のかたわらに腰をおろして休んでおられました。
真昼頃(ユダヤでは第六時と言います)です。

そこへ、ひとりのサマリヤの女が
水をくみに来たのです。
イエスはその女に
「わたしに水を飲ませてください」と言われました。
そのとき弟子たちは食物を買いに、
町へ出かけていていませんでした。

そこで、そのサマリヤの女はイエスに言いました。
「あなたはユダヤ人なのに、
 どうしてサマリヤの女の私に、
 飲み水をお求めになるのですか。」
―ユダヤ人は雑婚してしまっていたサマリヤ人を
軽蔑し見下げていたので、
つきあいをしていなかったのです。

それだけではなく、
男性のレビ、つまりイスラエルの教師が
女性に声をかけることは、当時しなかったのです。
ですから、男性である
人としてはユダヤ人のイエス・キリストが、
サマリヤ人の女に声をかける、お願いをする
などということはあり得ないことだったのです。

でもイエス・キリストはされました。
どうしてでしょう。
そうしなければ、
このサマリヤの女から声をかけられることなど
あり得なかったからです。

イエスは、
自らへりくだって
自分からサマリヤの女に声をかけられたのです。
井戸の傍らに腰を下ろしておられたイエスは、
このサマリヤの女よりも低いところから目をあげて
このサマリヤの女に「わたしに水を飲ませてください」
と頼まれたのです。

どうしても、
このサマリヤの女を罪の泥沼から救い、
サマリヤの町の人々を救い出したいと
願っておられたからです。

あなたが今、
どんな泥沼に落ち込んでいても、
あなたの愛する大切な人が
もうどうしようもない状況になっていても、
あきらめないでください。

主イエスは、
あなたを愛し、
その大切な人を愛して、
その人のところ行き、
身を低くして
その方に目をとめ声をかけてくださる方なのです。
そして必ずその泥沼から救い出してくださるのです。


「聖書って、こんなにおもしろい」より
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【2019/09/20 18:35】 | 未分類
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わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。

またわたしは彼らを知っています。

そして彼らはわたしについて来ます。

ヨハネ 10 : 27


【2019/09/20 18:11】 | 未分類
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しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。
            ヨハネの福音書4章4節


主イエスはユダヤを去って、
またガリラヤへ行かれました。
しかし、その時
サマリヤを通って行かなければならなかったのです。

当時ユダヤからガリラヤに行くには
サマリヤを通るのが一番近かったのですが、
ユダヤ人たちは、
サマリヤを避けて遠回りしてガリラヤに行きました。

サマリヤ人が雑婚していたので、
ユダヤ人たちは彼らを見下げ軽蔑していました。
そして、そこを通ろうとはしなかったのです。
しかしイエスは、
そこをあえて通って行かれました。

それはイエス・キリストは
サマリヤの人々をも愛しておられ、
そこに住む人々を救いたいと強く願っておられたからです。
だからサマリヤを通って行かれたのです。

しかも真昼頃に、
砂漠の多いサマリヤを通って行かれたのです。
それは、サマリヤにいる一人の女性を
まず救おうとされていたからです。
主イエスは、まず彼女を救い、
そして町の人々を救おうと思われました。

このサマリヤの女は実は、
人々に見下げられ軽蔑されていた女でした。
しかしイエス・キリストは
この女に目を留め、この女に会うために
昼の暑い時にサマリヤを通って行かれました。

イエス・キリストは
人々に軽蔑され除け者にされているその人に
目をとめられました。
これがイエス・キリストです。

「聖書って、こんなにおもしろい」より

【2019/09/19 09:22】 | 未分類
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朝夕、急に涼しくなりました。
昨夜は冷房なしで休めました。

今朝はお迎えを受けて元気に
ディサービスへ行きました。

【2019/09/19 09:14】 | 未分類
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ほかの大祭司たちとは違い、
キリストには、まず自分の罪のために、
その次に、民の罪のために
毎日いけにえをささげる必要はありません。
というのは、キリストは自分自身をささげ、
ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。
         ヘブル人への手紙7章27節


人間は必ず死にます。
祭司ももちろん死にます。
それゆえ、多くの者が祭司となり、
毎日毎日繰り返し、自分の罪のために、
そして民の罪のためにいけにえを捧げていました。

しかしキリストは、
きよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、
また、天よりも高くされた大祭司であられました。
そのお方であるイエス・キリストは自分自身を捧げ、
ただ一度で罪の贖いを成し遂げられたのです。

私たちに一番必要な大切なことを
成し遂げてくださったのです。
この方こそ、
私たちにとってまさに必要な方なのです。
永遠に全うされた
御子であられるイエス・キリストによって、
私たちは神に近づき、神の子とされて、
神と生きた交わりを持つことができるのです。


「聖書って、こんなにおもしろい」より

【2019/09/18 19:00】 | 未分類
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